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【五輪】東京五輪470日本代表、外薗潤平インタビュー前編

 外薗潤平を知っている方なら話は早いかもしれません。明るく楽しく、そしてパワフルという言葉がぴったりのセーラーです。470だけではありません。猛者たちが集まった昨年のスナイプ全日本選手権で圧倒的なスピードで優勝したことは記憶に新しいでしょう。東京五輪を最後に自身の五輪活動に区切りをつけた外薗選手。いま彼はどんなことを考えているのでしょう? バルクヘッドマガジン編集長がインタビューしました。(BHM編集部)

外薗潤平(ほかぞの じゅんぺい)。1991年3月20日生まれ。鹿児島県出身。身長174cm、体重73kg。鹿児島商業高〜日本経済大〜JR九州。2017年、18年、20年470全日本選手権優勝。2018年江の島ワールドカップ優勝。2021年東京五輪470級7位。2021年スナイプ全日本選手権優勝。現在所属フリー

◎日本はその答えを知らないんだと思います。分かっていたら成績に出ているはずですから

BHM編集長:東京オリンピックから半年が経って気持ちや環境も落ち着いてきたかと思います。いくつか聞きたかったことを質問させてください。外薗潤平は次のオリンピックを目指さない?

外薗:はい、そうですね。東京を最後にしようと決めていました。どういう成績であれ、やめようと思っていた。先のことが決まっていたわけではなく、だらだら続けるよりも東京で一区切りしたいと考えていました。

編集長:オリンピック初出場でメダルを取れる選手はほとんどいません。2度目、3度目の挑戦でメダルを取るという流れがあるのも事実です。そう考えると、もう一度チャレンジしてもよかったのでは?

外薗:(パリ五輪で470級は男女ミックスに変更されるため)種目を変えて挑戦できるかと考えた時期もありましたが、もしオリンピックに出られたとしても、上位で争うことなんてたぶんもう……できないなって自分の中で決めた部分があった。それは良くないことかもしれないけど、現実的に、客観的に見て、自分を俯瞰してみた時に、470みたいに世界と上位で争うことはないだろうと。

編集長:それだけ東京五輪に全力を注いだんだろうし、気持ちはよく分かります。東京五輪が1年延期されて、その間、ほぼ国内活動に限定されましたね。海外選手と手合わせできない、もどかしさ、はがゆさ、みたいなものはありましたか?

外薗:日本でできることはたぶんやったと思います。ただ、ヨーロッパとか競争の激しいところに行ってトレーニングしないとレベルは上がらないし維持できないというのは、どうしても感じるところでした。だからといって、本当にそれのせいかって言うと、オーストラリア(東京五輪470金メダル)なんかは全然そんなことない。

編集長:確かにそうですね。オーストラリアは完全に国内だけでトレーニングしていて、ヨーロッパの大会には日本と同じで1度ぐらいしか出ていません。結果はメダルレース前に金メダルを確定させる横綱相撲をみせました。

外薗:練習内容だったり、もうちょっとの工夫が、自分たちの中ではやっていたんですけど、もうちょっと工夫できるところはあったんだろうと思います。それがどの部分だったのかはわかりません。

編集長:その答えは出ていない?

外薗:たぶん日本選手はその答えを知らないんだと思います。分かっていたら成績に出ているはずですから。

編集長:オリンピックのレースについて聞かせてください。岡田・外薗組は金メダルを取ることを目標にしていました。でも、レースが進行するにつれてメダルにはもう届かない、という位置になっていきました。そのときは、どんなことを考えていましたか?

外薗:大会前から金メダルを取ること目指していたし、その気持ちでオリンピックを迎えました。最終レース前にメダルに届かないことは分かっていたけれど、レースをやっている以上はひとつでも上に行くためにはどうしたらいいかと常に考えていたし、気持ち的に落ちるようなことは考えないようにしていました。ただ、ライバルだった日本チームのことを考えていたことはありました。

編集長:ライバルと言うと東京五輪の代表選考まで戦った日本チーム? 外薗選手は同じ大学(日本経済大)の出身選手や、一時チームを組んでいた仲間が多かったですね。

外薗:はい。ぼくは土居(土居一斗選手)とも組んだことはあるし、市野さん(市野直毅選手)とも組んでいた。それこそ今村 亮(大学の同期選手)は途中でやめましたけど、磯崎(磯崎哲也選手)とも仲良くて。彼らは敗れてしまって五輪活動、ヨットレースを続けられなくなった。そういういった選手を見て、絶対勝たないといけないと思っていました。勝つことで彼らに恩返しじゃないけど、距離の近い存在だっただけに、そういう気持ちを強く持っていました。

東京五輪470級日本代表として出場した外薗潤平。いま日本でいちばんうまいクルーはと聞かれたら、間違いなく名前の上がるセーラーです

◎オリンピックでは「実力を100%発揮する」「自分の実力以上のことを発揮する」が求められる

編集長:もう一度オリンピックのレースを振り返ってみます。東京五輪のコンディションは、強風でもなくベタ(凪)でもなく、日本に不利なコンディションではなかったと思います。レースを観戦していて、スタートで出遅れてファーストレグを不利な走りをする場面がありました。

外薗:ぼくたちはダウンウインドが速いということがあって、スタートは無理する場面ではなかった、ということがあります。特にメンタル的に英語(失格)だけは避けたかった。序盤で攻めれなくて、後半に考え方を変えて攻めだすようになった時には、ちょっと時すでに遅し……になってたのかな、とも思います。最初から思い切り行っておけば、全然成績は変わってたかもしれない。だから、実力じゃなく……技術も大事なんですけど、メンタル的な部分が大きかったように思います。

編集長:攻めのポイントがズレてしまっていた。

外薗:終わってみれば、そうだったのかも、と思う部分はあります。スタートのラインを見極める技術も、もっと精度が高ければ、メンタルも違っていたのかとも思います。

編集長:そのなかでもオーストラリアは圧倒的で理想的な勝ち方(メダルレース前に得点差をつけて優勝確実にする)で金メダルを取りました。その違いはなんなんでしょうか?

外薗:(風が)吹いていたら分かるけれども、ハーフトラピーズでも全然スピードが違っていた。完全に仕上げてきていました。

編集長:オーストラリアは強風で敵なしなのは分かっていました。ただ、軽風から中風までは、特にリオ五輪以降は、そこまで圧倒的ではなかった印象です。

外薗:ピーキング(パフォーマンスのピークを合わせる)の持って行き方なんでしょうかね。イギリスも突出して、1、2、3位とかに入ってくる選手ではなかったですけどメダルに絡んできた。自分の体調の持っていき方は分かるけど、「実力を100%発揮する」もしくは「自分の実力以上のことを発揮する」持っていき方っていうのが、正直、最後の最後まで分からなかったです。

ダウンウインドを得意とした岡田・外薗組の走り。冷静なコースストレテジーとスピードを維持したまま角度を取る技術は世界トップレベルでした

◎オリンピックは短く感じました。でも苦しかった。楽しむという気持ちはなかったですね

編集長:東京五輪のレース期間は短く感じた? それとも長く感じましたか?

外薗:短かった。ぼくには短く感じました。でも苦しかった。楽しむという気持ちはなかったですね。

編集長:短くて苦しい期間?

外薗:オリンピックは特別な場所だし夢の舞台でした。いろんな人が応援してくれて注目度も違う。特別だなあと思いましたけれど、苦しかった。

編集長:岡田・外薗組の男子7位の成績はメダル獲得(男子は2004年アテネ五輪で銅メダルを獲得)に次いで良い成績です。それを評価する人もいるけれど、自分の中ではどう感じている?

外薗:まったく、ですね。終わった後はいろんなことを考えました。もうちょっとこうできたんじゃないか、ああできたんじゃないかとか。オリンピックで活躍してる選手とか、メダル取ってる選手とかを見ると、なんていうんですかね。僕もメダル取ってたらこんな風になってたのかな、とか。

編集長:オリンピックで活躍した選手を自分と重ねて見てしまっていた。

外薗:テレビでメダル取った選手の特集とかやってても、傷口に塩を塗られてるような感じがして、ちょっと無理でした。素直に「おめでとう」という気持ちにはなれなかったです。7位入賞が嬉しいとかそういう感情になったことは一切ないです。良かったとか、楽しかったというのも。今オリンピックを目指している人に言ったら良くないのかもしれないけど、ぼくは苦しかった。

編集長:オリンピックが終わって、その後遺症にも似たもので、人と会いたくなくなる、外出できなくなるという話を聞いたことがあります。外薗選手はどうでしたか?

外薗:テレビを見れないというのはありました。ただ、ぼくはいろんな人と話すのが好きで、それが気晴らしになる。1人でいるとどうしてもオリンピックのことを考えちゃうし、ずっとウジウジ悔しい気持ちを……ああだったな、こうだったな、もうちょっとこうすればよかったな、って考えてしまう。結局それを考えたところで出口がない感じがしたので、外に出て人と話しをして、セーリングすることで気持ちを切り替えました。

※インタビュー後編へ続きます。

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