相模湾伝統の第64回大島レース今週開催!
5月24日、日本でもっとも古い外洋レース「第64回大島レース」が開催されます。この大会は、葉山沖をスタートし、伊豆半島熱海沖の初島を回航して伊豆大島へ。大島をまわって葉山へ戻る85マイルのオーバーナイトレースです。(BHM編集部)
さて、この大会を運営する葉山マリーナヨットクラブで毎回本部船を担当している、田中一美さん〈DELPHINA III〉の寄稿文をご紹介します。
文章は56回大会当時(2006年)のもので、一時は70艇の参加を集めた同大会ですが、オフショアレース人気の陰りとともに55回大会は5艇、56回大会は9艇まで減少。長い歴史故にさまざまな変遷がありました。その後、大島レースは20艇以上を集めるまでに復活。余談としてヨット泥棒をつかまえたこともあったとは…。
スタートは5月24日午前11時。今年はIRCクラス21艇、ORCクラス9艇がエントリー(重複参加あり)しています。昨年は夜通しの取材を敢行したわたくし編集長ですが、今年は選手として〈エスメラルダ〉で出場します。またバルクヘッドマガジンの人気連載「ヨットレース繁盛記」が大島レースから復活します。みなさん、おたのしみに!
前回大会のスタートシーン。photo by Junichi Hirai
◎大島レース・ブログ
http://blog.goo.ne.jp/oshima-rc
※編注:この記事は2006年に書かれたものです。年度は2006年を基準にお読みください。
文・田中一美(DELPHINA III)
わが国最古の外洋レースである日本セーリング連盟(JSAF)加盟団体・外洋湘南葉山フリート主管の大島レースが今年で56回目を迎えた。
始まった頃のクルーザー界は米人中心の日本クルージングクラブ(CCJ)が主体となっていて、1950年7月に横浜から大島岡田港までのレースがおこなわれている。これが噂の第0回大島レースである。優勝は唯一完走した慶大ヨット部の〈ARGONAUT〉(横山晃艇長)であった。
翌年の1951年に第1回大島レースが15隻参加して行われた。コースは現在と同じ葉山〜初島〜大島〜葉山。スタート方法は、レーティングに準じて葉山港外にアンカリングしているレース艇がアンカーをあげてスタートする方式であった。優勝は日大の〈桜〉(横山晃艇長)で、完走は6艇であった。
初期の頃の参加艇の半数以上は、米人を中心とした外国人所有艇で日本人所有艇は、20〜25フィートのJOGと呼ばれる、横山晃氏、渡辺修二氏などが設計し、自ら艇長として参加していた。
回を重ねるごとに艇の性能、技量もあがるとともに参加艇も増え、第11回以降は20艇以上、第21回目以降は40艇以上となり、第25回は70艇も参加した。艇も年々大型化し、40フィート以上も珍しくなくなった。
永らく鐙摺港を中心とした日本外洋帆走協会(NORC)葉山フリートのフリートキャプテンがレース委員長をつとめていたが、1987年に小田切氏がフリートキャプテンに就任した以降、葉山マリーナヨットクラブが運営するようになった。
いつしか「花の大島レース」と呼ばれるようになり、鳥羽レースと共に関東水域の外洋ヨット乗りの憧れであり、目標になっていった。
沿岸で競われるブイまわりレースと異なって外洋レースの醍醐味(面白さ)は天候、潮流、クルーの練度、艇のポテンシャルなどがすべて関係し、まさに自然との戦い、自己との戦い、ライバルとの戦いである。
特に大島レースが開催される梅雨入り前の5月末頃の相模湾、伊豆半島北部は変わりやすい天候、複雑な潮、島の影響による風などがからみあい、それだけに優勝艇も毎回のごとく変わっていて面白みを助長しており「花の大島レース」と言われるゆえんのひとつである。
2013年大会で夜明け前にトップフィニッシュした〈エスプリ〉。photo by Junichi Hirai
勝負は初島から大島へ渡る時!
葉山沖をスタートしたあとレース艇は初島へ向かうが、初島まではほとんどドラマは起こらない。しいていえば、初島付近のブランケットと潮に逆らわないよう東側からのアプローチを避けるぐらいだろう。
勝負の最大の分かれ目は初島から大島に渡るときである。風の強さと方向、その年の黒潮分流の影響を見極め、どこから大島に渡るかである。定石は川奈崎から門脇崎まで沿岸の南下流をつかみ、渡り始めたらヘディングをほぼ真南に向け、千波崎をぎりぎりでかわして竜王崎に向かうのが良いとされている。
真っ暗な千波崎付近の磯釣りの電気浮きが見え、釣り人の話し声「きょうはやけに船が多いな〜」が聞こえるまで近づくのは勇気を必要とする。風早崎から元町沖に取り付いたら最悪である。潮に逆らって千波崎まで達するのは容易ではない。
竜王崎をまわったら三原山の吹おろしをどう利用するか(いなすか)と相模湾に入ってからのコースの引き方である。吹き降ろしは風向にもよるがいきなり10m/sぐらいあがる場合もある。
以上のごとくヨット乗りの技量を試されるのが花の大島レースである。今までにも初島のブランケットでリタイアした艇、元町沖から千波崎までに数時間掛かった艇、三原山の吹き下ろしでスピンを破損したり、ディスマストした艇、房総半島の方まで流された艇など数々のドラマがあったが、人身事故に至らなかったのはさいわいである。
運営側も無線、携帯電話の義務付けでロールコールによるレースの展開が分かり、フィニッシュ前1時間通報でフィニッシュ体制の準備など若干楽になり、退屈しないようになった。
外洋レースの伝統の灯を消さないためにもレース実行委員会もがんばる所存であるが、参加艇が増えることを期待する。
======= 大島レースのトピックス =======
(1)盗難事件
第41回(1991年)の時、真夜中の葉山マリーナから出ていこうとしているヨットがあった。葉山でいちばん大きく豪華なJackyである。しかしどうも様子がおかしい。エンジンも掛けずに帆走で出ようとしているが、南風のために出られない。急いで見に行ってみると見慣れない男が乗っていた。「Jackyの関係の方ですか?」と声をかけても返事がない。船どろぼうだ!! みなで取り押さえ、葉山警察へ突き出す。あえなく御用。これが北風だったら首尾よく港外へ出ていただろう。
(2)コースレコード
〈Lucky Lady V〉が11時間45分15秒のコースレコードを樹立したのが、第50回(2000年)である。〈BIG APPLE〉が第31回(1981年)に樹立した12時間37分18秒を50分以上も短縮する記録であった。非公式のオープン参加ながら第41回(1991年)に27フィートトライマラン〈FOLLOW ME〉の11時間53分31秒もあった。
コースレコードを持つ〈Lucky Lady V〉。なつかしい!(編集部)photo by Junichi Hirai
(3)参加艇数の推移
バブル景気の崩壊(第41回頃)とともに参加艇は急激に減って、昨年はわずか5艇となってしまったが、今年は若干増え9艇であった。
参加艇数の推移。初期の頃の10数艇から40艇台(1970〜1990)に増え、1975年の第25回には70艇に増え、その時の総合優勝は〈SunbirdII〉であった。その後、急激に減り、第55回では5艇の寂しいレースとなってしまった。
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