夢のフォイリングを沖縄で!10年を経て実現したモス名護カップ
「モスのレースを沖縄で開催したい」という夢は、2013年にハワイで開催されたモスワールドに端を発する。フォイリングの爽快感は、透明度の高い海でさらに高まることを知ったあの時から大会実現まで、実に10年近い時を要した。(レポート/後藤浩紀 日本モスクラス協会 前会長)
特にこの1年半は関係機関と交渉に交渉を重ね、ときに粘り強く、ときに思い切って妥協し、多くの困難を乗り越えて開催にこぎ着けたのが12月16日から3日間の第1回国際モス級ヨットレース名護大会、通称「名護カップ」なのだ。
秋から冬にかけての沖縄は北東の風が支配的である。那覇から北に車で1時間ほどの名護湾は南西に開けていて、北が吹いても東が吹いても完全な平水面。しかも本土では考えられないほど安定した風が吹き続ける。まさにモスのためにあるかのような海面だ。
大会2日前にコンテナから船を受け取った選手たちは、我先にと争うように名護の海へ飛び出した。期待以上の素晴らしい海面を満喫し、この練習だけでも来た甲斐があったとコメントするほどだった。
しかし、現実は時に厳しい。大会初日は朝から激しい雨に見舞われ、エメラルドグリーンの海面も見る影もなかった。それでも多くの来賓の参席をいただき、観覧艇や陸上の観客席からレースの模様を見ていただけたのはせめてもの救いだ。雨以外は北東12〜18ノットの完璧なコンディションの中で3レースが行われた。
筆者は2-1-1位となんとか暫定トップに立ち、1-2-2位の行則選手と早くも一騎打ちの様相。3位には3-3-3位の岡田選手、4位と5位に26歳の小泉選手と56歳の大西選手が同点で並ぶところがいかにもモスらしい。
2日目はさらに厳しかった。前日の雨が小雨に感じるほどの豪雨。風速も頻繁に30ノットを越えており、いくらオフショアでフラット海面とはいえ、安全を考慮すればノーレースにせざるを得なかった。夕刻からは選手・運営スタッフと地元ボランティアの懇親会が開かれ、練習日に撮影されたドローン映像を肴に心温まる交流がもたれた。
迎えた運命の最終日。雨は上がり風も少し落ち着いたが、風向が少し西寄りに振れたせいか沖からのうねりがレース海面にまで回り込んでおり、20ノットをゆうに越えるガストと相まって地獄のような海面を作り出していた。
この日から観客により楽しんでもらうために、SailGPスタイルのリーチングスタートコースで実施したのだが、上マーク近辺の強烈なガストと下マーク近辺のうねりは容赦なく選手たちを吹き飛ばす。
結局この日は2レースのみ行われ、全5レースで大会は幕を閉じた。最終日を1-1位とした行則選手が逆転で優勝。筆者は残念ながらラダーガントリーを壊してしまい途中リタイアで総合2位。東京五輪49er代表の小泉と470代表の岡田が同点で3位と4位に並んだ。
豪雨、暴風、高波と普段の名護とはまったく異なるコンディションで行われた第1回名護カップだが、それでも観客席からは多くの歓声が上がり、次回開催を切望する声が多く聞かれたのは喜ばしい。
限界ギリギリの厳しいコンディションでも5レースが成立したのは、予選を勝ち抜いた10名の精鋭モス乗りの技術はもちろんのこと、松尾レース委員長を始め運営スタッフの技術のたまものである。
特にノースセール・ジャパンから供出していただいたマークセットボットは、強風高波に加えて水深の深い名護湾でも何の問題もなく、今後のヨットレースのスタンダードになって行くことを確信した。また陸上解説としてSailGP日本チームの早福和彦氏の協力を得たことも大きかった。
何事もゼロから生み出すのが一番困難だ。ヨットレースなど誰も見たことも聞いたこともない名護の地でこのようなイベントが実現できたのは、地元の実行委員会メンバーならびに多くのボランティアスタッフのおかげに他ならない。あらためてお礼を申し上げたい。
この大会終了をもって、12年間務めたモスクラス協会の会長を辞することとなる。行則啓太新会長を始め、新執行部は全員が20代という他の協会には類を見ない顔ぶれが揃う。
そのフレッシュな感性で、これからのモス協会をさらに盛り上げて欲しい。そしてさらに多くの若者に、この「究極のディンギー」に挑戦して欲しい。未来は君たちのものだ。
ただ最後にこれだけは宣言する。来年の名護カップは私がいただく。